欲しいものはない

2018/03/16

最近、欲しいものを聞かれたり思い浮かべたりしても、思い浮かばなくなってきた。

 

代わりに実感としてあるのは、必要なものは全部もらってる、むしろもういらない、という感覚。

 

身体も、時間も、空気も水も太陽も、土も植物も動物も、山も森も川も海も湖も。

必要なものは、全部、もうもらってる。しかも無償で。

それは田舎に暮らしてるから、感じることなのかもしれないけど。

 

あとは、与えられたものを、どう使うかということだけ。

 

うまく使えれば、食べ物も飲み物も、着るものも、住むところも、道具も、嗜好品だって、遊ぶことだって、学ぶことだって、なんでも満たせるって感じる。

 

残念ながら、僕はまだ使いかたがへたくそで、せっかく与えてもらったものを、ほんのちょっとしか使えてないって思う。

だから、足りない、ということになって、それを補うために、いろんなものをお金で買って過ごしている。

せっかくたくさんのものが手元にあるのに、みすみすそれをスルーして、他の土地や人から、「そこのひとが使うもの」を横どりしてる。大げさな言い方だけど、事実だと思う。今はそんな状態。

 

それはなんか、悔しい。

だから、うまく使えるようになりたいって思う。

必要なものは全部もう手元にあって、それを上手に使えさえ出来れば、他の土地や人のものを取らなくても、十分に満たされるんじゃなかろうかと。

 

だから、これ以上欲しいものっていうと、なんだか、無い。

ただ、あるものを上手に使えるようになりたい。

 

今はまだ全然ですけど。

ちょっとずつでも、そっちの方向に。

 

 

ところで、今の暮らしを変えるって話のときに、じゃあいろんなことを我慢しなきゃいけないかのとか、不便で大変な思いをしなきゃいけないのかとか、保証がなくなるとか、昔に戻るのかって話が、当然出ると思います。

 

そういう思いをしない為の方法として、おおざっぱに2つの方向があると思います。

 

ひとつは、欲が少なくなること。欲求の数そのものが減れば、それが満たされずマイナスな思いをする数も減る。むしろそちらの方向になれば、心は逆に落ち着いて、プラスの思いのが多くなるかも。

 

もうひとつは、欲を捨てるんじゃなくて、その欲を満たす手段を変えること。

美味しいものを食べたい、オシャレをしたい、楽しい思いをしたい、健康でいたい、将来の保証が欲しい、子どもにいい教育を受けさせたい、楽をしたい、嫌な思いをしたくない、自由でいたい。などなど。

それを満たす手段を、変えるだけ。

満たす感情は、一緒。

何も、我慢することはない。

大きく違うのは、その手段が、「満たしてもらうか」ってことか、「自分で満たすか」ってことか、その違い。

 

満たしてもらうってのは、「誰かが作ってくれた・用意してくれた、欲求を満たすためのもの」を、利用して、欲求を満たすこと。

自分で満たすってのは、先ほどの「元より手元に与えられているもの」を利用して、自分で欲求を満たすものを作り、欲求を満たすこと。

 

思うのは、前者は、ひとつ欲求を満たす裏に、たいてい別の部分で、何かしらのマイナス要素を伴ってるんじゃないかってこと。

欲求は満たせるけど、自分の心身だったり、または自分じゃないけど、違う誰かの心身だったり、はたまた人間以外の動植物だったり、その欲求とは違う部分で、マイナスのことが起こってるんじゃないかってこと。

それは、その欲求を満たすために使われるものが、本来あるべき姿・場所から、違うものへ変えられる・移される際に、自然の摂理に反した無理なエネルギーがかかるからじゃないかな、と思う。

 

一方の「自分で満たす」てことを考えたときには、何もマイナス要素を伴ってない気がするんです。むしろ、ひとつの欲求を満たすのに、同時にその欲求を満たす行為とは直接関係ない複数のことまで、プラスのことが起こる、そんなお得なことが起こるような気がするんです。

すでに手元にある様々なものを使い、自分で考え、身体を動かし、欲求を満たすものをつくる。

自分がいる場所、そこに自然に存在するもの、それが持つ本来の役割をそのままに、上手に利用すれば、他の誰かや場所のものを、何も使わなくてすむんじゃないかと。

不自然なエネルギーを使わなくてすむんじゃないかと。

あわよくば、その行為自体に快感を覚えるかもしれない。

 

もちろん、どちらにも、いい面・悪い面あると思います。

でも、トータルで見たときに、圧倒的に後者のほうが、プラスが大きいように思います。

しかも、後者のマイナスと思われる部分、例えば、不便になる、身体を動かさなきゃいけなくて疲れる、手間や時間がかかる、などというのは、とても表面的なもので、そのマイナスと思われる部分がもたらす結果は、例えば身体が強くなるとか、知識技術がつくとか、健康になるとか、悪いものに触れなくてすむとか、クオリティーの高いものが出来るとか、その後の満足感がハンパないとか、良いことがその後に起こると思うんです。だから、よくよく考えても、後者のマイナス面は全くないように思えるんです。

 

 

そして、ほとんどの人が手に入れたくてやまない、「保証」については、ハッキリいって真逆のベクトルを持っていると思います。

片や、様々なことをすり減らしながら進む道と、

片や、何も減らすことがない、むしろ増やしながら進む道と。

「循環」という言葉に置き換えられるかもしれません。

どちらが時間が経ったとき、多くのものが残ってるでしょうか。

そのたくさん残ってる可能性があるほうのことを、「保証がある」と呼ぶんじゃないのかなと思うんです。

「人に満たしてもらう」というシステムの中には、すり減らす要素が入っていて、

「自分で満たす」っていうシステムの中には、すり減らす要素が入ってないように思うんです。

 

 

そして、昔に戻るのかって問いは、それもそうじゃないんじゃないかなと思います。

結果昔と同じような行為に戻るとしても、絶対的に違うのは、「今」を経験しているか、そうでないかってこと。

 

昔は、自分で様々なことを賄うってのが、そうせざるを得なかったからってのが、あると思います。だから、それとは違う、まだ見ぬ何かを期待し、模索し、実際につくってきたんだと思う。

そして実際夢見た場所に辿りつき、冷静に見つめてみると、期待したものは手に入れたかもしれないけど、同時に失ったもの、これから失うものもあるなってのも、思ったと思うんです。実際、僕はそう思います。

 

だから、それを経験した上で、どっちがいいのかって考えて、「選択」した結果、仮に元のような場所に帰りついたとしても、それは決して昔と同じじゃないと思う。

 

だって、しょうがなくいる場と、自分で選んで居る場では、全然違いますものね。

 

 

 

そんなことを考えるとき、

でも、その、「手元にあるものを使い、自分で賄って欲求を満たす」ってのは、都会で暮らしてると難しいよなって思います。

 

だって、前提としての「ひとりひとり与えられてるもの」が、都会だと少なすぎるんですもの。

田舎だったら、現状それが有り余るほどあるんです。

 

でも、日本で考えても世界で考えても、ほんとはひとりひとりの必要な分を賄うだけの絶対量は、十分にあると思うんです。

なのに、

片や、資源はいっぱいあるのにほとんど使われず放置されてる田舎と、

片や、自らその資源を排除し、資源の少なーい中で、たくさんの人がひしめき合ってる都会と。

資源の少なーい中にそれ以上の人がいれば、自給できないのは当たり前ですよね。それを補うために、遠くから様々なものが作られ・運ばれている。

そこにさっき言った不自然なエネルギーが生まれ、そのエネルギーが、現代に様々な歪みを引き起こしている。

僕にはそう思えます。

 

だから、このバランスの悪さを解消すれば、自然に良い方向に向かっていくんじゃないかと思うんです。

もうちょっと都会じゃなく田舎に暮らす人が増え、本来その場で使われるべきものがその場で使われ、よそに無理なエネルギーをかけることが少なくなれば。

そしてそれは、そこに暮らす人が決して何かを我慢している状態じゃなく、人生を謳歌するだけの欲求を十分に満たしている状態。

 

そうなれば、今よりも、人の心も身体も満足感で満ち、なおかつ自然の循環の輪も崩れることなく、将来の「保証」も得られる状態。になるのかなと、なればいいなと思います。

 

 

 

そんな夢のような状態、実際十分に実現可能なんじゃないかと、僕は無責任にも思うんです。

 

今それを難しいことのように感じてしまうのは、ほとんど盲目的になってることが原因じゃないかと思うんです。

 

今世の中に当たり前としてある、楽しいってのは、安心ってのは、裕福ってのは、こういう状態のこと。

逆に、大変ってのは、苦しいってのは、貧しいってのは、不安ってのは、こういう状態のこと。

っていうのが、無意識の中にある。

 

でも実際は思い込みによるもので、

今盲目的に見えてない喜びや、逆にほんとうは逃れられる苦しみが、思い切って見方や暮らしを変えることによって、いっぱい見えてくるように思うんです。

 

今まで不便だと、苦だと思ってたことの裏には、実はこんな喜びがあったのかとか、

逆に今まで当たり前だと思ってた苦しみからは簡単に逃れられて、それはこんなにも清々しいものなのかとか、

「経験」することによって、「価値観が変わる」ことの要素が、田舎暮らしにはたくさんたくさんあると思うんです。

僕は実際に、ちょっとずつちょっとずつではありますが、感じてきています。

 

だから、たくさんの人がもっと田舎に住むという現実は、必ずしも夢物語じゃないと思うんです。

 

田舎に移り住むということは、明確な計算式はない、その先のことを誰かが保証してくれるわけじゃない。

それがない事に踏み込むのは勇気がいることかもしれません。

でも、理屈で考えても、今より良くなる要素は、十分に裏付けとしてあると思います。

逆に、理屈で考えると、少なくとも今の延長線上に「保証」を求めるほうが、夢物語なような気もします。

 

 

 

とはいっても、えいやって踏み込む際に、勇気などいらなければなおいいなと思います。

今世の中では、確実に、そのハードルを下げてくれてるような実践をされてる方が、たくさんいらっしゃると思います。

でも、もっともっと、「楽しい田舎暮らし実例」が増えれば、もっともっと、ハードルは下がると思います。

 

僕は、おこがましいけど、その実例のひとつになれればと思っています。

自分のスタートがいわゆる盲目的な中だっただけに。

まだ、自分たちが実例としてなり得るだけの状態をつくるのに精一杯ですが、それが誰かの背中を押すことにつながれば、という気持ちで毎日を送っていますし、出来るだけ感じたことを綴りたいと思っています。

 

 

これは、いっぺんにコロっと変わることじゃないというのも、承知してます。田舎での暮らしを作るのも、世の中が変わっていくのも、とても時間がかかるもので、逆にいえば、時間をかけないと、本質的なとこからはつくれないと思います。

 

でも、その道は、道のりが険しくゴールにたどり着いたときにやっと喜びを感じれるようなものじゃなくて、その過程でも、確実に喜びが増えるのをヒシヒシと感じられる道だと思うんです。

大げさにいえば、よし、こっちの道を進もうと思い、見据えた時点で、歩み始めた時点で、そこでもうスカーッと清々しさが感じられるような、そんな道。

 

どこまで行けるかが問題じゃない。

そこに行こうとすることするだけで素敵。

だと、そんな道だと思います。

 

そしてこの道には、敵はいません。

なぜなら、この道は、ひとのものを奪おうという気持ちが全くないからです。

自分に与えられたものを、上手に使えるようになるのを目指す道。

そこには誰かのものが減ることはありません。

うまく使えば、十分に全員が賄えるだけの量のものがある世の中だと思います。

 

(別に今がひとから奪おうと思って生きてるひとはほとんどいないと思いますが、数字でいろんなことを表す世界の中にいると、どうしたって増えた減った、多い少ないが出て、比較・格差が生まれると思うんです。僕はそれが人類が合理性を求め生み出してきた「貨幣経済」の裏ある、デメリットだった部分だと思っています。屁理屈ですかね?)

 

 

手を取り合い、ひとりひとりが自分で立とうするのを助け合う道。

それは人が関われば関わるほど、相乗効果を生む道だと思います。

いろんな知恵や知識や技術が、何倍にもなるから。

 

 

 

「お金」を使って、人からの「サービス」を受け、生きる世界。

サービスを受けないと、生きる術を持ち得なくなってしまった世界。

お金があればあるほど、人からのサービスをたくさん受けることが出来る世界。

逆にお金がなければ、人からのサービスが受けられない世界。

お金が無いと、サービスを受けられないと、何も無い。という世界。

だから、出来るだけお金を、集めようとする世界。

その世界は、その世界自体を、蝕んでいき、いずれは潰えていく世界。

 

じゃなく、

 

すべて必要なものは、すでに持ってる。という世界。

それをつかって、自分で色んなものを作り、人生を楽しむ世界。

見返りを求める必要がないので、躊躇なく手を貸し合える世界。

何も蝕むことはないので、永遠かはわからないけど、長いこと続いていく世界。

 

 

そんな世界だったらいいなあと、純粋に思います。

 

 

世間知らずで馬鹿げたことを言ってるのかもしれないけど、僕はそれが実現可能なことなんじゃないかと信じているし、そこに向かってみたいと思っています。

 

 

簡単、ではないけれど、悔いはない、道。

 

えらそうなことを言ってますが、まだまだ思いばっかしで、現実はかけ離れてます。

でも、一歩ずつ、毎日を楽しみながら、噛みしめながら、歩みたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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