国会を聞きながら思うこと
今の世の中は(政治は、企業は、あるいは個人は)、安心、安全、幸せを求めて動いてなんかいない。あたかもそうだと、うわべでは言っているが。 なんだかよくわからない「利益」というものしか追っていない。 その「利益」が、何をもたらすのかも、もはやよく分かっていない。 その「利益」を求めるがために、失っているものにも、まるで目がいっていない。
ように、思う。
「利益」って、何? 「成長」って、何?どこに向かってるの!? その言葉の中身、何?
世の中が、もうなんだかよくわからないうちに、本心にかかわらず、「利益」というものを追うしか生きる方法がないかのごとく追っているように見える。追わされているように、見える。
政治家の国会なんか聞いてると、企業のニュースなんか見てると、なんだかまだなーんにも分かってない子供が、大人から間違った世界を信じ込まされて、その中で無垢に一生懸命おままごとしているように見える。その中で、自分はすごいんだ、と、信じ込んでるように見える。
人は何のために生きてるのだろう?人生ってなんなんだろう? そんなこと答えは無いんだろうけど。
自分だったら、どうなりたいのか。どう生きたいのか。どんな一日を過ごしたいのか。どんな気持ちになりたいのか。どんな風景の中にいたいのか。どんな瞬間を味わいたいのか。誰と一緒にいたいのか。何を安心と呼ぶのか。何を幸せと呼ぶのか。その先には何があるのか。子供たちが大きくなった先が、どんなだったらいいのか。
それをもう一度、静かに落ち着いて考えてみたら、何が心に浮かぶだろう。 正確じゃなくていい、言葉で表せなくたっていい。まして数字で表せるものじゃないはず。
なんとなく、こんな感じ。なんとなく、こんな気持ち。なんとなく、こんな雰囲気。なんとなく、こんな時間。 ふんわりと、あたたかい感じ。
心落ち着けて今の世の中(政治や、経済)を見つめたとき、今の世の中が、そのふんわりしたあたたかいものを求めて動いているようには、僕には見えない。 その「利益」というものが、そのふんわりしたあたたかいものをもたらしてくれるようには、まるで思えない。 その中にいたら、僕だったら、とても心の底から安心だという気持ちには、いつまでたってもなれない気がする。
その「利益」の正体は、まるでふんわりあたたかには繋がっていないように思う。あるいは、その「利益」を追うがために、どれだけのそのふんわりしたあたたかいものを手放しているんだろうと、思う。
もちろん、「利益」がもたらしてくれるものも、あるでしょう。 でもそこで味わう、 「幸せ」や「快楽」も、「安心」出来るだけのものにはなり得ない気がする。 様々なモノを手に入れられるが、それは一時のもので、追わなければいけないストレスは、またやってくるだろうと、そんな風に思う。
僕はなんか、それは嫌だ。欲しいものと、ちょっと違う。
もちろん、僕は十分幸せものだと思います。 今までも、今も、これからも、文句のつけようのないくらい、幸せと言えると思います。 家族がいて、友達がいて、仲間がいて。楽しい瞬間が日々の中に散りばめられていて、ごはんが食べれて、毎日を送れる。
だけど、僕は欲張りなんでしょう。 その日々の中には、自分が味わいたくない気持ちになる瞬間も、あった。 不本意ながら、しょうがないんだと言い聞かせる場面が、あった。 やりたくないことで、時間を過ごしている時もあった。 将来を保証するために、いつも何か追っていけなきゃいけない、焦りや不安が、あった。 そしてそれはいつまで続くんだろう、という気が漠然としていた。 もうこれで大丈夫。って気持ちになる日は、来るのかな。と思っていた。
それは、味わいたくないって、思った。 できれば家族にも、味あわわせたくないって、思った。(ひとりよがりかもだけど)
今はそういう時代だよって、片付けたくなかった。
そして、日々何気なく過ごしている自分は、実は見えないところから色んなものを「削って」生きているんだということを、知った。 そしてその「削って」いるものは、僕の娘が大人になるころには、無くなってしまうかもしれない、ということを、知った。
じゃあ、どうすればいいんだろう。
僕が思うふんわりとしたあたたかいものを、「ずっと」手に入れ続けるためには、何をしたらいいんだろう。 僕が思うふんわりとあたたかいものを、僕の子供にも、孫にも、そのまた子供にも、味わってもらうには、何をしたらいいんだろう。
何かを変えないと、それは難しいんじゃないかという、気がした。 今自分が乗っている土俵では、そこにたどり着けないんじゃないかという、気がした。
土俵を変えないと。
ここ数年、そんなことを考えながら、過ごしてきた気がする。 道を選んできた、気がする。
その過程で、だんだんだんだん、遠くが見えてきた気がする。 その遠くにたどりつくために、今何をしなきゃいけないかが、見えてきた気がする。
選択基準が、クリアーになってきた気がする。 迷わなくなってきた、気がする。
どんな「日々」を営めば、ふんわりしたあたたかいものを「ずっと」手にすることができ、それをこどもたちに渡せるのか。
その「日々」の中には、食べるもののこと、使うもののこと、着るもののこと、住むところのこと、つくるもののこと、捨てるもののこと、話すコトバのこと、取る行動のこと…。 いろんな「他」との関わりあいがあると思います。
そこでどんな選択をするのか。
どんな選択をしたら、いろんなものを「削らず」生きれるのか。 あるいは「生み出す手助け」をして生きられるのか。 自分たちが、身も心も、清々しく生きれるのか。
思い描くようには、いっぺんには、無理だ。
今も、できてることはちょびっとで、こうしたいなと心では思っていても出来てないことのほうがたくさんだ。
でもたどり着こうとしないと、絶対にたどり着けない。 流されてしまう。それくらい、今世の中を動かしている歯車は、大きい。
小さい小さい積み重ねが、試みが、徐々に徐々に形になってきて、やがていつの間にか大きな歯車なしで動けるようになっている。 それは本当に、小石をひとつひとつ、ひろい集めるような作業だと、思います。
でも、小石をひろい集める作業なら、誰にだってできる。 僕はとくべつ力があるわけでもなく、頭がいいわけでもなく、資産があるわけでもなく、コネがあるわけでもない。 どっちかというと痩せっぽちの(背骨もちょっと曲がっている)フツーーーの男です。
小石をひろい集める作業なら、そんな僕にでも、おばあちゃんおじいちゃんでも、僕の2歳のムスメでもできる。 何もとくべつなことじゃない。 そんなもんだと思うんです。
そんなやろうと思えば「物理的に」誰にでもできることが、日々を未来を変えていくことに繋がるんだと思います。
確かに、小石をひろうといえども、「労力」は労力です。「楽(らく)」とは逆のこと。小さな労力といえど、その「楽」に向おうとするベクトルは強大でなかなか抗えないということも、重々承知してるつもりです。
でも、その「楽」に逆らって小石をひろったときの、なんというか、清々しさったらない!!なんだか、胸をはれる気分になる。
僕はその、胸をはれるような気分が好きです。 だから、小石をひろおうとするんだとも思います。
そしてひろった小石は、必ず自分のものとして蓄積されていく。
それは、 力だったり 知識だったり 技術だったり 知恵だったり 信頼だったり 物理的なもの(土地、たべもの、住むとこ、道具、etc…)だったり
裏切ることのない、自分の人間力や、自然とのつながりが、 何があっても大丈夫!というような、本当の安心につながるんじゃないかな。という気はしてます。
自分の生きがい=家族の安心=世の中や地球のため
この3つが ”イコール” になるような日々が送れたらいいなと、今日からもちょっとずつちょっとずつ、小石をひろっていこうと思います。